原状回復トラブル裁判例から学ぶ|オーナーが知っておくべき契約実務
原状回復トラブル裁判例から学ぶ|オーナーが知っておくべき契約実務

賃貸経営において、入居者とのトラブルで最も多いのが「原状回復」に関するものです。
退去時の修繕費をめぐって、「壁紙は誰の負担?」「クリーニング代は当然に請求できるの?」といった争いは後を絶ちません。
国土交通省のガイドラインがあるにもかかわらず、裁判に発展するケースも少なくありません。
背景には、“原状回復”という言葉のあいまいさと、オーナー・入居者それぞれの「常識のズレ」があります。
本コラムでは、実際にあった裁判例をもとに、オーナーとしてどのような契約実務・管理体制を整えるべきかを考えていきます。
トラブルを未然に防ぐための「実務の勘どころ」を一緒に見ていきましょう。
なぜ原状回復トラブルはなくならないのか
原状回復をめぐるトラブルは、長年にわたり賃貸業界の“定番問題”です。
国交省がガイドラインを定めてから20年以上が経ちましたが、今なお紛争件数は高止まりしています。
なぜこれほどトラブルが多いのか——。その理由を探ると、「契約書の書き方の問題」と「入居者との認識ギャップ」という2つの要因が浮かび上がります。
原状回復の基本原則と「通常損耗」「経年変化」の違い
原状回復とは、退去時に部屋を「もとの状態」に戻すこと……とよく言われます。
しかし、“もと”とはどの時点なのか。ここに大きな誤解があります。
国土交通省の『原状回復をめぐるトラブルとガイドライン』では、「借主の故意・過失・善管注意義務違反によって生じた損耗や毀損」は借主負担とし、それ以外の通常損耗や経年変化はオーナー負担と明記されています。
たとえば、日焼けによる壁紙の変色や、家具設置による床のへこみなどは経年変化です。
これを入居者に請求してしまうと、トラブルのもとになります。
一方で、タバコのヤニ汚れや落書き、ペットによる傷などは借主の過失にあたります。
この線引きが曖昧なまま「退去時に見積もりを出して請求する」と、借主側から「納得できない」と言われてしまうのです。
つまり、原状回復の原則をオーナー自身が正確に理解し、それを契約書に反映させておくことが、トラブル予防の第一歩です。
よくあるトラブル例|「入居時の状態」を巡る争い
トラブルの多くは、「入居時の状態が不明確」というシンプルな原因から生まれます。
たとえば、あるケースでは、入居者が5年間住んだ後に退去する際、壁の傷と床の汚れについて修繕費を請求されました。
しかし入居者は「もともと小さな傷があった」と主張。
オーナー側には入居時の写真も記録もなく、どちらの言い分が正しいのか証拠がない——。
結果として、裁判では“立証責任は請求側(オーナー)にある”と判断され、修繕費の請求はほとんど認められませんでした。
このように、入居時の状況確認が不十分なまま退去を迎えると、オーナー側が不利になりがちです。
写真・チェックシート・立会記録を残すことはもちろん、入居者にも「ここに傷がありますね」と確認して署名をもらうだけでも、後の証拠価値が大きく変わります。
「なんとなく問題ないだろう」と思っていた小さな傷が、退去時には思わぬトラブルに発展することもあるのです。
オーナーの主張が認められなかった裁判例
実際の裁判でも、オーナーの請求が退けられるケースは少なくありません。
たとえば、ある東京地裁の判決では、10年以上入居していた部屋のクロス張り替え費用を、オーナーが全額請求しました。
しかし裁判所は、「長期入居による自然な劣化」であるとして、借主の負担を一部しか認めませんでした。
この事例では、オーナー側が「ヤニ汚れ」「色あせ」などを理由に挙げたものの、入居期間や喫煙状況の証拠が乏しく、経年変化と判断されたのです。
また、別の裁判では、エアコンの故障修理費を借主に請求したところ、「入居当初から古い設備であり、寿命による故障」としてオーナー負担とされた例もあります。
設備は年月とともに劣化するもので、“使用による自然消耗”はオーナーの維持管理義務の範囲内とみなされます。
このような事例から分かるのは、「オーナーが悪い」ということではなく、“証拠と契約の裏づけがないと、主張が通らない”という現実です。
裁判所は、感情ではなく「客観的な証拠」に基づいて判断します。
だからこそ、日常の管理記録や契約条項の書き方が、のちのち大きな意味を持つのです。
裁判例から読み解く「契約書・管理の落とし穴」
原状回復トラブルの多くは、「契約書にちゃんと書いてあるから大丈夫」と思っていたのに、実際の裁判では通用しなかった——というパターンです。
つまり、トラブルの発端は契約書そのものに潜む“落とし穴”。
ここでは、実際に裁判で争われた契約内容をもとに、「有効な特約」「無効とされた特約」、そして「管理の不備が争点となったケース」を見ていきましょう。
「特約」が有効と認められたケース
特約とは、一般的なルールに上乗せして設定される契約条件のことです。
原状回復に関しても、「通常損耗も借主負担とする」「退去時はハウスクリーニング代を支払う」など、オーナー側がリスクを減らすために設定するケースが多く見られます。
ただし、特約がすべて有効になるわけではありません。
裁判所は「借主に不利な内容でも、明確かつ十分に説明され、借主が理解・合意していれば有効」と判断します。
たとえば、ある大阪地裁の判決では、「入居時にハウスクリーニング代の負担を明確に説明し、契約書にも署名があった」ことから、退去時の請求が認められました。
このケースでは、“説明をした記録”が鍵となりました。
つまり、重要なのは「特約を設けること」ではなく、「きちんと説明した事実を残しておくこと」です。
また、近年は電子契約が普及していますが、オンライン契約時に説明文書を表示し、同意チェックをつける形でも有効性が認められた例があります。
契約の形が変わっても、「相手に理解させた証拠」があれば、オーナーの主張は通りやすくなります。
「特約」が無効とされたケース
一方で、「契約書に書いてあるのに無効とされた」例も少なくありません。
典型的なのが、「通常損耗も含めてすべて借主負担」とする特約です。
これは一見オーナーを守る内容に見えますが、借主に過度の負担を強いる内容と判断されると、消費者契約法や民法の趣旨に反し無効とされます。
たとえば、東京地裁のある判決では、「入居者に特約内容の十分な説明がなかった」として、壁紙や床の張り替え費用の請求が棄却されました。
オーナーは「契約書に書いてある」と主張しましたが、裁判所は「説明義務を果たしていない」と判断したのです。
さらに、特約の文言が曖昧な場合も要注意です。
「退去時には実費精算とする」とだけ書かれていても、どの範囲を借主負担とするのか明確でなければ、解釈の余地が生まれます。
結果として、「通常の清掃費まで請求するのは不当」と判断されることがあります。
このような誤解を防ぐには、
「○○の場合には借主負担」「△△についてはオーナー負担」と、範囲を具体的に明記することが大切です。
特に壁紙・床材・設備などはトラブルが多いため、項目ごとに明示しておくのが理想です。
管理会社との連携ミスが原因となった裁判例
契約内容がしっかりしていても、管理会社との連携不足でトラブルになるケースもあります。
とくに「入退去時の確認」「修繕報告」「入居者への説明」がうまく共有されていないと、オーナーに責任が及ぶことがあります。
たとえば、ある地方の裁判では、退去時の立ち会いを管理会社が行い、入居者に「一部負担で大丈夫です」と説明してしまったケースがありました。
その後、オーナーが別途修繕費を請求したところ、「管理会社の説明を信じた」として借主が拒否。
最終的に裁判では、「管理会社はオーナーの代理人であり、その説明はオーナーの責任」と判断され、オーナー側が請求を取り下げる結果になりました。
また、別の事例では、入居時の写真記録を管理会社が紛失してしまい、オーナーが修繕費を請求できなかったケースもあります。
このように、管理会社との情報共有が曖昧だと、オーナーに不利な結果をもたらすことが多いのです。
オーナーとしては、「入退去チェックシート」「写真データ」「入居者説明内容」を自分でも確認・保管しておくことが重要です。
「すべて管理会社に任せている」ではなく、「一緒に管理している」という意識が、トラブル防止につながります。
トラブルを防ぐための実務対応
裁判例を見ても分かるように、原状回復トラブルの多くは「ルールを知らなかった」「記録を残していなかった」という単純な理由から起きています。
つまり、正しい知識と仕組みを整えておけば、ほとんどのトラブルは防げるということです。
ここでは、オーナーがすぐに実践できる「契約」「証拠管理」「コミュニケーション」の3つの観点から、具体的な対応策を整理します。
契約書で明確化すべきポイント
まず何より大切なのは、「契約書でどこまで明確に定めているか」です。
原状回復の範囲や負担区分をあいまいにしてしまうと、いくら丁寧に管理してもトラブルは防げません。
契約書の中で特に注意したいのは次の3点です。
通常損耗・経年変化の扱いを明記すること
→「借主負担は故意・過失による損耗のみ」と明確にしておく。特約の有効性を意識して書くこと
→ ハウスクリーニング費や畳・襖の張替えなど、負担範囲を具体的に。説明責任を果たす仕組みを整えること
→ 契約書の説明を行った日時・担当者・同意署名(または電子同意)を残す。
これらを整えておくことで、退去時に「言った・言わない」の争いを防げます。
また、契約書のテンプレートを毎年見直し、ガイドライン改訂や法改正に対応することも重要です。
近年は電子契約の導入も進んでおり、署名や説明履歴をデータで残せる点も大きなメリットです。
入退去時の「証拠管理」と写真記録の重要性
トラブルを防ぐうえで、次に大切なのが「証拠の残し方」です。
裁判では、どんなに正しい主張でも証拠がなければ認められません。
入居時には、部屋のすべての部位(壁・床・天井・設備など)を写真で記録し、入居者にも確認をしてもらうことが基本です。
この際、「入居チェックリスト」に署名してもらえば、後の紛争時に強力な証拠となります。
退去時にも同じ視点で写真を撮り、修繕が必要な箇所を明確にします。
「同じ角度から撮る」「日付入りで撮影する」など、比較しやすい工夫をしておくとベストです。
最近では、クラウド管理ツールを使って、入居時・退去時の写真とメモをデータで保存する方法も広がっています。
管理会社任せにせず、オーナー自身がデータを確認できるようにしておけば、後々のトラブル対応がスムーズになります。
また、入居時の瑕疵(キズや不具合)を早期に修繕しておくことも大切です。
「最初から壊れていた」と主張されると、修繕責任の所在が不明確になってしまうため、“放置しない”管理姿勢が重要です。
借主とのコミュニケーションで防げるトラブル
最後に忘れてはいけないのが、借主との日常的なコミュニケーションです。
多くのトラブルは、「お互いの思い込み」から始まります。
たとえば、「壁紙の汚れは借主の責任」とオーナーが思っていても、入居者は「前から汚れていた」と認識していることがあります。
日頃から、「何か不具合があれば早めに連絡してくださいね」と伝えるだけでも、トラブルの芽を摘むことができます。
また、退去が決まった時点で、「原状回復の範囲」や「負担の考え方」を事前に説明しておくことも効果的です。
入居者が納得して退去すれば、感情的なもつれを防ぐことができます。
管理会社に任せる場合でも、「どのタイミングでどんな説明をするか」を明確に決めておくと安心です。
トラブルを防ぐ最大の鍵は、結局のところ“信頼関係”にあります。
借主との関係を大切にし、「フェアな姿勢」を示すことが結果的に自分を守ることにつながります。
「知って備える」ことで、原状回復トラブルは防げる
原状回復トラブルは、どんなに注意していても、賃貸経営において避けて通れないテーマです。
しかし、裁判例を見れば明らかなように、オーナーが知識を持ち、証拠を残し、説明を丁寧に行うことで防げるトラブルが大半です。
特約を明確にすること、入退去時の状態をしっかり記録すること、そして借主とのコミュニケーションを怠らないこと。
この3つを意識するだけで、原状回復に関するトラブルは大幅に減らせます。
「正しいルールを理解し、透明性のある対応を心がける」
それこそが、長く安心して賃貸経営を続けていくための最大の防御策です。

